悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
失敗しました。自分はあまりに慎重に過ぎた。書店でこの本を見つけ、面白いかどうかの判定のため、上巻だけしか購入しませんでした。こんなに面白いとは。下巻を買いたいのですが、見つけたのがどこの書店か失念してしまっています。ああ、次が読みたい。
さて、惑星科学の大家、カール・セーガンが、現代にはびこるニセ科学について論じたものがこの本です。ここでいうニセ科学とは、いわゆるオカルトあるいは行き過ぎた宗教を指しています。もちろん、カール・セーガンは科学者ですので、これらニセ科学については否定的です。しかし、それを頭ごなしに否定するのではなく、理論を展開し、ときには数字で理屈に合わないことを指し示す。
この理論が正論なだけに、ニセ科学の妙な理屈が露呈し、おかしみが出てくるのです。
たとえば、異星人による誘拐について書いた章。地球よりも遥かに文明の進んでいるはずの異星人がなぜ、はやりの話題に対する警告を出しているのか。何故、一九五〇年代にフロンガスとオゾンの減少について警告してくれなかったのか。何故、一九七〇年代にHIVウイルスについて警告してくれなかったのか。ごもっともです。
たとえば、(トルティヤがキリストの顔そっくりに焼きあがり、神の御業だと騒いでいるのに対して)よりによって、トルティヤなどに奇跡が現れるだろうか。違いないです。
科学は常に批判にさらされているのに対し、ニセ科学は批判をすり抜けるように創られているという、著者の言葉には納得です。理系の学生だった頃、私もよく指導教官に「論文は批判的に読め」といわれたものです。追試験ができるというのが必要条件である科学に対して、奇跡あるいは神秘を売り物にするニセ科学はやはり胡散臭いの一言に尽きます。
と、こう書くと、科学は夢を壊すという声がまさに当てはまってしまいそうなのですが、どちらかというと、夢を追っているのは科学の方に思えてなりません。通俗的な奇跡を呼ぶ神秘のブレスレット(雑誌の裏表紙によく見かけるような)と、プレートテクトニクスやブラックホール、突飛な発想をしているのはどう考えても後者のほうでは?